日枝陽一 氏
作硯家、硯研究家
日枝玉宝堂 3代目

 子供のころ、書道の授業で固形の墨を擦った経験はありますか? 硯の陸(おか)で力を込めて墨を擦るものの、水っぽさが強く残り、結局は市販の墨汁を注いだ経験はないでしょうか。
 本来、天然石から作られる硯は、鋒鋩(ほうぼう)という微細な突起を表面に持っています。硯は、言わばヤスリやおろし金のようなもの。墨は鋒鋩によって微細に削られ、鮮やかな墨色が生み出されます。その工程は軽やかで、一度体験してみると、感動を覚えることと思います。
 山口県には、日本を代表する硯「赤間硯」(あかますずり)があり、800年以上もの昔から受け継がれています。その硯について、硯職人(硯研究家)の日枝陽一氏にお話を伺いましたので、学んだ事を交え紹介します。

赤間硯の里

 山口県宇部市の北部に、「赤間硯の里」と呼ばれる地域があります。豊かな緑と静寂に包まれた山間の集落で、この地域で、硯職人自らが坑道を掘り、採石・選別し、硯を制作しています。
 明治時代には、周辺地域を含め200~300人の硯職人がいたとのことですが、現在は、この赤間硯の里に採掘権まで持つ職人が3名と、下関市で作硯する職人が数名となっているようです。
 日枝陽一さんは、この里で大正時代から続く工房「日枝玉峯堂(ひえだぎょくほうどう)」の4代目、日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞など、数々の受賞作品がこの地から生み出されています。

赤間硯の制作

 赤間硯は一つひとつ手作業で作られます。その工程は、採石・選別、形づくり・縁立て、荒彫り、仕上げ彫り磨き、漆による仕上げなど、10以上にも上ります。
 彫りの工程では、硬い石を削るために、自作したノミの柄を肩に押し当て、体重をかけながら削っていきます。肩にはタコが出来ることから、かつてはタコで熟練度も分かったようですね。
 また、粘りがあるため繊細な細工もしやすく、職人によっては彫刻の加飾彫りを行っています。
 赤間硯に関わる業務は、かつては分業制であったものの、現在は、採石から制作、販売までの全てを硯職人が担っており、他の伝統工芸品と比べるとかなり特殊であるようです。
 このように、硯の制作は「多岐に渡る工程と完成までに日数のかかる仕事であるにも関わらず、硯の価格は実態に合っていない」と、日枝さんは強く感じています。

赤間硯の販売

 赤間硯の販売は、百貨店や伝統工芸品を扱うショップなどへの委託販売があり、地元山口県では、販売スペースが設けられたコンビニもあるそうです。
 また、個人的にネット販売をされている方もいて、日枝さんへ連絡を取る方や工房を訪れる方もいます。日枝さんとの繋がりを持つ中で、深い造詣と気さくな人柄に、ファンになる方も多いようですね。
 その他、工房を訪れるなどして、オリジナルの硯を依頼する方もいます。日枝さんにとっては、「使う人の顔や思い、用途が想像できることから、同じ硯制作の作業でも大きな楽しみを感じることが出来る」お仕事だということです。

課題と将来への取り組み

 本場中国では、硯は文房四宝(ぶんぼうしほう)として重んじられ、日本でも大切な文具の一つでした。現在、筆記具はペンやパソコンなどに置き換わり、書道でも市販の墨汁が使われています。日常で硯が使われるシーンが多くないことは容易に想像できると思います。
 一方、日枝さんは、この様な状況よりも、硯が持つ本来の機能や魅力に対する認知が低いことを危惧しています。「元来、硯は墨を擦る道具であり、軽快に墨液を作ることができる。また正しくメンテナンスすることで長く使用できるものでもある。それにも関わらず、『硯は擦れない』、『日本の硯は、中国の唐硯(とうけん)に比べ質の割に高い』などの誤った認識がある。」ということを憂慮しています。そのため、本来の硯を誤解なく知ってもらうために、日枝さんは、様々な取り組みを行っています。

  • 地元宇部市では、小学校へ赤間硯の貸し出しを行い、子どもたちは授業を通して硯の持つ魅力や実用性を体感しています。
  • 山口県の温泉郷、長門湯本にあるホテルでは、宿泊客へ赤間硯で墨を擦る体験や同硯を制作する体験の機会を提供しています。
  • 旅行代理店やコンベンション協会と赤間硯の制作ツアーを企画するなどして、地域に人を呼び寄せる活動を模索しています。
  • その他、硯に関わる様々なワークショップなどを開催しており、東京でも硯の講義・制作体験を開催しました。また、硯を長く使ってもらうためのメンテナンス方法についても、丁寧に教えています。

最後に

 日枝さん曰く、「個人的な収益を考えると、販売のための硯制作に専念した方が良い。しかし、硯がこの先の未来へも受け継がれ、使用され続けるには、硯に対する正しい認識の広がりが不可欠である」と考えられています。
 日枝さんの多くの取り組みはそのためであり、伝統工芸を受け継ぐ職人としての責務から、「赤間硯だけでなく、和硯(わけん)全体への正しい認識が高まり、そこから、使う人が増えてくれることに貢献できればいい。」との思いを持たれています。


《赤間硯とは》
 赤間硯は、赤褐色の原石「赤間石」を用いて制作された、美しく芸術性の高い硯です。緻密な石質のため、発色が良く、かな文字や墨絵など伸びのある繊細な表現にも適しているとのことです。
 歴史は古く、鎌倉時代に源頼朝が鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)に奉納したという記録があり、幕末には吉田松陰にも愛用されました。また、松陰が愛用した赤間硯は、松陰神社(山口県萩市)の御神体の一つにもなっています。
 そのような赤間硯は、山口県の西部、宇部市や下関市周辺で作られており、伝統の技を忠実に受け継いだ職人によって『用』と『美』が高度に融合され、手にする人、使う人を楽しませてくれます。是非一度、お手に取ってみては如何でしょうか。

《日枝玉宝堂の連絡先》
TEL/FAX:0836-67-0641
メール:akama793@abeam.ocn.ne.jp